おもいでばなし
あれから1ヵ月。
頭がパンクしそうなほどいろんなことを考えました。
不幸中の幸いは卒論を提出した後のタイミングだったことくらいでしょうか。
先日、南座での『滝沢歌舞伎ZERO』を観るために、京都に行ってまいりました。
普通ならここで、感想とかレポとか、そういきたいところですが、まずは少しだけ、思い出話でもしたいと思います。あくまでも一個人の回想、追憶にすぎないので、読み流してください。
南座の感想も含まれるので、まっさらな状態で『滝沢歌舞伎ZERO』をご覧になりたい方はこれから先は読まないでください<(_ _)>
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私自身、前情報をほとんど入れずに観劇しました。
(まあそれは新体制をWS映像や雑誌の記事などで見ることに耐えられなかったからなんですが。。)
オープニングから数分観てみての感想は、我ながらよくないなと思いつつも「『春の踊り』と『いにしえ』が聴きたい」でした。
これは新作をdisっているとか、面白くなかったとかそういうことではなくて、私はあくまでも『滝沢歌舞伎』を観に行っている心持ちだったのだと痛感させられたということです。
私は無印の『滝沢歌舞伎』のファンだったのだと。
こんなにも『滝沢歌舞伎』を愛していたのだと。
滝沢秀明さんの一声で始まるオープニング、過去公演の映像の映写、舞台奥から飛び出す櫓とJr.たち、上手上からの客席上のフライング……
私の知っている『滝沢歌舞伎』はいつもそんな春の風景を見せてくれていました。
変わり映えがしないと思う人もいたのかもしれませんが、これを観なければ春は始まらなかったのです。(生で観られたのはたったの二度ですが…)
伝統的なミュージカルやオペラを観に行くようなものでした。この曲が来るとわかっていて、それを楽しみに行く。
完全新作だと謳われていたのは知っていたはずなのに、心のどこかで『いにしえ』や光るセグウェイ、『いつか』のような女性ダンサーさんとJr.のペアダンス、MASK DANCE…そんな大好きな演目がまた観られるのではないかと期待していたのです。
だから、なんだか一人ぽつんと置いて行かれているような、私以外の世界がどんどん遠ざかっていくような、そんな感覚に陥ったのだと思います。
あと、観劇中ずっと思っていたのは「誰を見たらいいのかわからない」ということでした。
『滝沢歌舞伎』では、絶対的な座長である滝沢秀明さんを、基本的には注視していたように思います。
推しが出ていようが何しようが、そちらも気にしながら、絶対的な主役である先輩方をメインに楽しんでいたという感じです。
今回は、グループとしての主演。もちろん、各人に見せ場はあるし、特定のメンバーが期待され、重要な役を与えられているのだろうなと思えたけれど、複数人を一気に見るスキルは私にはありませんでした。。目が足りないとはまさにこのこと。。
今回は過去映像も、写真も、無印の『滝沢歌舞伎』および滝沢秀明という絶対的前座長の目に見える名残は一つも登場しません。(鼠さんの遺影はある。)
それが区切りであり、けじめであり、"ZERO"たる所以だとわかってはいるし、そうあるべきだと私も思う一方で、どうしても寂しくて、なんなら観劇を終えたその瞬間に、タレント・滝沢秀明はもうこの世に存在しないのだと改めて実感したような、そんなショックを受けました。
それだけ、あの『滝沢歌舞伎』が好きでした。
和のエンターテインメントショー、トンチキとか何でもありだとか言われてしまいかねない世界観に説得力を持たせる座長が、好きでした。
もう会えないんですね。
もう、あの春は来ないんですね。
寂しいです。
新しいものを否定したいわけではないけれど、どうしても後ろばかりを振り返ってしまう、何度も何度も思い出して、面影を探してしまう、私にとってはそんな時間でした。
きっとここ1ヵ月のいろんな雑念というか後ろめたさをもって観たことも大きいのでしょう。
でも、それでも、『滝沢歌舞伎ZERO』を観られてよかったと思います。
自分の目で見て、肌で感じられる機会は、今年の、これからの私にはもうそんなに多くはないので。
何が言いたいのかというと、『滝沢歌舞伎』が大好きだった人が、作品のファンが、ここにたしかにいたのだという意思表示と、そんな私の思い出話でした。
主演の皆さんへの思いはまた後ほど。。